神宮24時間走に参加して

神宮24時間走に参加してきました。
気づいてみれば、ロードレースを走ったのは、2010年の東京マラソンが最後。
この何年間はトレイルレース、登山ばかりでした。


そして、今回の結果は、記録180kmという至って平凡な数字でした。
でも、自分の中での目標であった「今の全部を出し切る」は、達成出来たと思っています。

振り返れば、いつも24時間走という競技から逃げていたように思います。

超ウルトラを走るきっかけになったのが、2003年の夢の島であり、これをきっかけにスパルタスロンがあり、さくら道ネイチャーがあったのに、なぜか24時間走は「走る」というより「走らされてる」感覚がありました。
そして、一昨年の夢の島で200km走ったことを最後にこの競技からは卒業したつもりでした。

、、、と、気づいたら今の私には、スパルタスロンの参加資格もなければ、さくら道ネイチャーの選考基準にも入らない。
それならば、24時間走で記録出せばいいんだと。

でも実際は24時間走は、そんな「甘い」ものではありません。
エントリーしたからと言って、練習にも取り組まず、山登りばかり。

1ヶ月前に慌ててロング夜間練習をしましたが、50km走っただけでギブアップ、翌日からは筋肉痛で歩くことさえも辛いし、ジョギングでさえもキロ10分。
坐骨神経痛はさらに悪化し、持病の子宮筋腫から不正出血が始まり、2週間前の雁坂サポート直後にぎっくり腰、とうとう大会3日前には風邪まで引いてしまいました。
何て私は調整や体調管理が出来ないのでしょうか。

こんな状態で走る資格などあるのでしょうか、、、。

そして、やめるならば早く決断をして、謝らないといけない。
そうです、サポートをお願いした舘山代表です。
金曜の夜に電話を入れました。
でも、電話は何度掛けても通じません。

もう一晩考える時間が出来ました。

そして、出した決断が「今の自分がやれることを出し切る」でした。

レースの間も何度か甘い考えの自分が出てきました。
鼻がつまって呼吸が口でしか出来ないせいか苦しい、身体は熱いのに手足だけが異常に冷たく痺れてきます。吐き気をもよおし何度もコース脇でしゃがみます。
疲れと眠気で蛇行しながら歩きと走りの繰り返し。

もう何度も何度もやめたくなり、言い訳ばかり考えます。
とうとう夜中3時くらいにコース離脱して、テントで寝てしまいました。
始発が動き出したら帰ろうと。
もう、レースを放棄してしまいました。
代表に繰り返し、繰り返し、ごめんなさいと言い続けていました。


一時間ほど寝たでしょうか。
外が明るくなってきました。
舘山代表は「どうするかは自分で決めなさい。でもこのままリタイアしたら後悔するんじゃないの?」と。

ちょうど、チームメイトのうめちゃんが応援に来て顔を見せてくれました。
あのTJARでぼろぼろになっても、走っていたうめちゃんを思い出しました。


もう一度コースに戻りました。
「まだ私は自分の全てを出し切っていない。このまま逃げてはいけない」

呼吸を荒げ、フォームも歪み傾き、必死でした。
二時間半、必死に走りました。

全てを出し切って、24時間を終えました。


24時間終了の合図と同時に、最後の周回一緒に走ってくれた代表が「よく頑張った」と、言ってくださいました。
代表がレースを投げ出さなかったからこそ、私は最後コース上でレースを終えることができたのだと思います。

少し前には、ウルトラ仲間であり同じく参加していたMASAさんと、サポーターのまゆみちゃんの姿がありました。
MASAさんは、257kmで優勝したそうです。
一ヶ月前の世界選手権の失敗があるからこそ、今回は意地の優勝だったと思います。
この競技へのこだわりがMASAさんの素晴らしいパフォーマンスに見事つながりました。
また何よりもまゆみちゃんのサポートが素晴らしかった。
MASAさんもすごいけれど、まゆみちゃんがすごかった。


感謝の気持ち。
苦しい時ほど、この気持ちを忘れてはいけない。

誰だって苦しい、辛いと思うときがあるはずです。
その時に、走らせてもらえる環境、周りの応援、、、どれくらい感謝出来るか、そしてどれくらい自分の目標にこだわることが出来るかだと思います。


私は、これからはまたランナーではなく、サポートする立場に戻ります。
この経験が生かせるようなサポートが出来ますように
そして、走れる時は、感謝の気持ちを忘れず、一生懸命走りたいと思います。

ありがとうございました。